Rut Bryk (1916-1999)ルート・ブリュックの作品について

Kannu ja sitruuna (1950) ⸻

Kannu ja sitruuna=水差しとレモン

ルート・ブリュック作品を見ていく上で重要になるのが、「鋳込み成型(スリップ・キャスティング)」という新しい技法です。ルートはそれまで素朴で大らかな親しみやすい絵画調の作品を作っていました。そんな中、イタリア旅行からインスピレーションを得て、この技法を開発。作品作りに取り入れることで彼女は世界的な成功を収めます。この時代から他にはないルート独自の作品が生まれていきました。

そのスリップ・キャスティングを用いた陶板は1950年に初めてアルテック・ギャラリーで発表されました。その発表作品の一つがこの”Kannu ja sitruuna=水差しとレモン”です。この転機となる陶板はタピオ・ヴィルッカラと結婚し、子供が生まれ、その翌年に家族で「子供の頃からの夢だった」イタリアを訪れることが出来た、ルートにとってそんな幸福感溢れる時期に生まれました。イタリア旅行から帰ってきて、この新しい制作技法を用いた作品作りを始めるのですが、ルートは元々自らが経験したことをインスピレーションの源とする作家です。新しく家族が増え、大好きだったイタリア美術を自身の目で見ることが出来た。ルートがこの時期に、食卓に並ぶ果物をモチーフとして選んだことは実に自然と言えます。

作品は翌年の1951年にミラノ・トリエンナーレで出品され、最上位賞のグランプリを獲得しました。これによりルートのみならず、フィンランドの芸術・工芸が世界に注目されるようになりました。

Tuhkavati(1960s) ⸻

Tuhkavati =アッシュ・トレイ

1960年代にルートの創作活動のテーマは個人的なものから普遍的なものへと変化していきました。蝶のモチーフを用いた作品作りは、蝶学者だった父の死を契機に始まりましたが、時が流れ、彼女の創作はより大きな視野を持つようになっていきました。この新たな展望の中で誕生したのが「アッシュ・トレイ」シリーズです。

1950年代後半から1960年代初め、ルートはタイル制作の道を探求します。幾何学的形状と細かい模様を施したタイル群は、一つ一つが芸術作品のように仕上げられました。彼女はこれらのタイルを単体での美を超え、組み合わせることで広がりのある新たな美しさを創り上げました。

特筆すべき作品として「都市」(1958年)があります。ここではタイルが街の基盤を形成し、セラミックのキューブが建物として配置されて、一つの小さな街が誕生しています。この手法は1962年にフィンランド銀行の頭取室の暖炉制作にも活用され、その美しさが称賛を浴びました。

1960年から69年にわたり彼女が手掛けた「アッシュ・トレイ」シリーズは、前述のタイル制作技法を受け継ぎ、さまざまなサイズやデザインのアッシュトレイを生み出しました。これらの作品はそれぞれが独自の美を放ち、精緻な装飾が裏面にまで施されています。

彼女は元々建築学への深い関心を持っていたため、彼女の作品にはその影響が色濃く現れています。彼女の美学は、タイル単体の美しさを超え、それらを融合させることで生まれる全く新しい美を追求していました。

そして、このシリーズの名付け親となったのは、フィンランドを代表するデザイナーであり夫でもあるタピオ・ヴィルッカラです。彼はルートの創作活動を心から支持し、彼女の作品を敬愛していました。彼はただ名付けただけでなく、実際に灰皿として使用し、更には散逸を防ぐために自らルートの作品を購入してコレクションしていました。ルートが尊敬と愛情溢れる中で創作活動をすることが出来た、幸せな様子が伺えるエピソードです。

Vati (1960s)

Vati=大皿

ルートは夫だけでなく、アラビアで働く職人たちからも敬愛され、作品制作に力を貸してもらっていました。

アラビアはルートが陶磁器のあらゆる可能性を探れるように、「果てしない遊園地」とも言える制作環境を提供してもらいます。アート部門のクリエイティブな雰囲気の中でルートは周囲から尊重され、自らのヴィジョンを自由に実現する環境を用意してもらいます。この”Vati=大皿”はそれを最大限に活かした作品といえます。

アラビアの製陶所の職人たちの協力により、200種を超える釉薬がルートのためだけに開発されます。写真はその釉薬見本ですが、これまでにはない美しい色が並んでおり、彼女が生み出す作品への期待の高さが伺えます。

200種を超える釉薬 ⸻
Tonssi (1957)

Tonssi=ダンス

ルートが職場に家庭と、周囲の愛情の中で創作活動を行ってきたことは間違いありません。そして、その愛情溢れる環境は、彼女が子供時代に強く求めていたものだったのかもしれません。

ルートの前期の陶板作品である “Tonssi=ダンス”、この作品が作られたのは1957年、第二子マーリアを出産した三年後です
自らが経験し感じたことをインスピレーションの源とするルートはこの時期に「母と子」をテーマとした作品を数多く制作します。子どもと遊ぶ母親、その作品を “Tonssi=ダンス” と名付け制作したルート、それは幼いころに自らが思い描いた幸せな家族像なのでしょうか。作品に描かれた親子、それは今の幸せな自分と子、それともかつての自分と母を描いたのか。

 

“I loved when she told about her child food.Exciting,funny,colourful stories. Rut always told that her childhood was very happy.Now when I know better I see that it was not so happy as she told.”
私は、母が自らの幼い頃の話をするのが好きだった。おもしろくてわくわくするような、色とりどりのお話ばかりだったから。ルートはいつも、自分がどれほど幸せな子ども時代を過ごしたかを話した。でも今はわかる。実際には、彼女が語るほど幸福ではなかったことを。

マーリア・ヴィルカラ

作品の意味について語ることを嫌い、作品には仲介や解釈抜きに直に語って欲しいと願っていたルート。こちらも鑑賞者によって感じ方が変わる作品です。娘のマーリアさんにはこの作品がどのように映っていたのでしょうか。

1999年死去 タピオと同じ墓で眠る ⸻

陶芸をアートへ

新しい釉薬や素材の導入、技術の革新を取り入れたルートの作品は、陶芸が持つ可能性を広げ、その地位をこれまでにない高みへと押し上げました。当時は他の芸術よりも凡庸とみなされていた陶芸が、人々にアートとして受け入れられるようになります。

ルートが芸術家として歩んだ道のりは、彼女が「正しい」と感じる方向性を絶えず追求してきた結果です。彼女は自身の創作活動に関して「自分のしたいことだけをしてきた」と振り返っています。この言葉は彼女が持つ芸術への真摯な取り組みと一貫性を物語っており、それが彼女の作品が時を超えてその魅力を保ち続ける秘訣であることを示しています。

ルートの作品の魅力は今も変わらず、世界中で新しいファンを増やし続けています。

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